過去について

      

過去を振り返ってみたくなりました。

自分の過去について書いてみます。友人に話したことはありましたが、こうやって、文章にするのは初めてかもしれません。

今はまとまりなく、思い出す順に書いていきます。

 

■ 母について

母は、厳寒の秋田の農家の5人兄弟の末っ子として、昭和11年に生まれました。そして平成5年に54歳の若さで亡くなりました。死因は「心不全」でした。母の生い立ちについては、また改めて書きます。

 

■ 私の生い立ち

私は母が27歳のときの娘で、一人っ子です。

2,3歳までは母との良い思い出ばかりしか記憶にありません。母がシロツメクサで冠を編んでくれたこと。おぶった私をあやすために、シャボン玉を飛ばしてくれたこと。服は、母の手作りのものばかりでした。

それが、幼稚園・小学校上がった頃から序々に変っていきます。

幼稚園ごろからの母は異常なまでに支配的で、私の心の中まで干渉してきました。機嫌が悪いときの母の記憶が圧倒的に多くなりました。箸の持ち方一つに至るまで、母の気の済むように行動しないとしかられ、少しでも口答えすると体罰が待っていました。序々に体罰もエスカレートしていきました。また、母の衛生観念は異常で、お客さんが帰ったあとは、消毒大会が始まります。父と私は、帰宅すると、まずお風呂に入り、服もスリッパもすべて替えてからでないと、畳の部屋には入れませんでした。母の判断する「汚い」ところに触ったかどうかを、ずっと監視していて、触ろうものなら服を取り替えたり、洗ったりしなければなりませんでした。

些細なことでも怒られ、今思うとそれは「いちゃもん」に近いものでした。悪いことをした覚えもないのに、しかられてばかりの私は、それでも、自分が悪いのだと思い込み、「顔もブスで、性格も悪い私は、何もよいことなんてない」と絶望しました。何度も自殺を考えましたが、未遂に終わってばかりでした。家に帰るのが嫌でたまりませでした。でも、家出をする勇気もなく、父にも相談できませんでした。父は、タクシーの運転手でしたから、2,3日に一度帰ってきます。父が朝、出勤するときの名残惜しさ、その後の恐怖は今でも忘れません。父がいる間は、体罰はありませんでしたし、母の意識は父に向いていましたので、気を休めることができたのです。

体中、服で見えないところはアザだらけでした。そして、何をするにも母の判断でしか行動できませんでした。隠れて色々なことをすることを覚えました。怒られないように嘘もよくつきました。よい成績をとっても、母は喜びませんでした。もっと上を目指せと言いました。母の与えた問題集をやっていないからと、登校の集合時間に家から出してもらえませんでした。母がキレると、物をよく壊しました。食事中に始まると、必ず食べ物が入ったままの食器を放り出しました。その後を片付けるのは、なぜか私でした。私の大切にしていた物(親友からもらったもの、大好きな先生からもらった物など)も壊されました。

母は虚弱体質で、特に悪いところがあるわけではないのに、私が小学生の頃には、すでにほぼ毎日寝ている状態でした。買い物や料理、洗濯、掃除は私の仕事になりました。中学生のとき、父が母に耐えられず別居してからは、男のする仕事も私の役目になりました。お陰でずいぶん、鍛えられたとは思います(大工仕事、ペンキ塗りなど)。

その頃、母がなまけ病とか、働いたら変るよ、とか他人によく言われていたのを覚えています。

思春期に入った私は、母の干渉が耐えがたくなりました。私にはプライベートな空間がありませんでした。机の中は母がいつも検閲していました。読まれたくないものは、よく友人に預けていました。手紙や日記帳は持ち歩いていたのですが、母は私のカバンまであけて検査しました。手紙は届くと先に読まれます。いつしか、お風呂が一番好きな場所になりました。邪魔されない唯一の場所だからです。

高校・大学の頃になると、私もときどきキレるようになりました。受験で気が立っていたのだと思います。母が体罰に使っていた「布団たたき」をぼろぼろになるまで、お勝手のシンクに打ち付けたり、カーペットを包丁で切り刻んだり、夜中に窓を開け放って、ミカンや氷や時には時計まで、ベランダから外に放り出したりするようになりました。

眠っていて、夜中に「馬鹿やろう!」と叫んだり、足をばたばたさせたりするようになったのは、いつからかは覚えていません。今も治らないので、会社の合宿で先輩を驚かしたことがあります。

大学2年のとき、父からの仕送りもなくなり、父がサラ金に追われ、家にも電話がかかってくるようになったため、母と父を離婚させました。それまでは、私の就職にひびくから、と母が離婚だけはしないでくれていました。でも、家族(母と自分)を守るためにと、離婚手続きをすべて私がやりました。家庭教師や事務のアルバイトと、母の貯金、それに奨学金、それが収入のすべてになりました。ありがたいことに、授業料は免除になりました。

大学の研究室はその年、私一人でした。研究室のW先生によく母とのエピソードをこぼしました。それまであまりこぼしたことはありませんでした。W先生は、「お母さんは、おかしいと思うから、心療内科の先生を紹介してあげる」と卒業式の日に、Y心療内科の先生に電話をしてくれました。

母は行きたくないと言いましたので、私一人でY先生のところに行きました。何度かの面談と投薬の後、母は精神分裂病と診断されました。ひどいときは、幻聴や痙攣が起き、私も登校できずにおろおろしたこともありました。薬は、母は飲んでくれましたが、合う薬に落ち着くまで1年近くかかりました。

一度、「低周波が聞こえる」と母が訴えたとき、いきつけの薬局に相談に行ったところ、薬剤師さんは笑いを浮かべて「あなたのお母さんは、頭がよいから、そういう人はそうなりやすいんですよ」とだけ言われて薬は出してくれませんでした。心療内科や精神科に行ったほうがよい、とは、誰も教えてくれませんでした。

私が幼稚園の頃にも、母は一度痙攣を起こし、入院したことがあります。心因性のものであることを父は聞かされていたそうです。

私は、毎日寝ている母のそばにずっといたので、母が病気だとか、おかしい、と思うことができなかったのです。すべて母が判断し、薬を買ってきてと言われればその通りにしていただけでした。なぜ、自分から母がおかしい、と思わず、理不尽な叱られ方をしたときさえ、自分が悪いと思い込んでいたのか、不思議でなりません。もう一度人生をやり直せたら、そんなおかしな生き方はしたくないと思っています。

 

次へ

 


ホームページに戻る